第57羽 自分を赦す

自分を赦す

聖書では

赦すものは赦される

赦しとは愛である

という。

仏教では赦すとは自分が正しいという前提で相手が悪いという見方をしているから赦す、赦さないとは偽善的見方になるという。

自己啓発では幸せを他人に求めるのではなく、自分自身に求めよ。何故なら変えられるのは他人ではなく、自分自身だからという。

さて、私も自己啓発の本を読み漁り自分を変えなければと思っている一人です。

他人は変えられない。しかし、自分もそう簡単には変えられませんよね。

昨日とちょっと違う自分はいるけど、なんとなく代わり映えがしない。

駄目な自分を正そうと必死でもがく。しかし、駄目なまま。

過去の自分も、現在の自分も自分には違いなくて、例え今、正せていたとしても過去の自分の過ちを思い返し嫌になる。

そして、今、正せていたものが束の間でまた同じ過ちを繰り返すのならやはり駄目な自分に戻るのです。

自分以外の他人に悪い評価をつけて自分の評価をあげる。

そうやって自分の自己肯定感を持ち上げようとする。

そして、やはり他人を貶めている自分が嫌になる。

そういった繰り返しで幸せが遠ざかっていく。

そんな気がしませんか?

赦しとは何か?

自分や相手が正しいとか正しくないというものの見方でもなく、怒りを手放すこと。

私は自分を高めよう、浄化しようと自己啓発本を読み漁っていたけど、変わらない自分が嫌になっていた。

或いは赦せないと思うものがあって、赦せないでいる自分が嫌、または怒りを抱えたままでいる自分が嫌になった。

そして、最後は「赦せない自分を赦してください。」と神に祈ることになった。

私は相手を赦せない前提で祈ったけれど、そう祈った瞬間、私は心を安らぐものを感じた。

本当は最も赦せないと思えるのは自分自身だったのです。

赦せないという思いは自分自身を責めるより誰かの所為にして自分を正当化した方が楽だと思えるからであり、他人を赦せないとは、実は自分自身を赦せないものにするのです。心の中で責め続ける行為は、他ならぬ自分自身を傷つけているのですから。

赦せない自分、自分を受け入れたい。

自分を受け入れるものが、人を受け入れるものになるから。

しかし、思うように自分を受け入れられない。

赦したいけど赦せないと思う心がまだ残る。

「赦す。」「赦せない。」「赦したい。」「赦してあげます。」「赦せない。」「赦したい。」・・・

感情が「赦す。」というものに否定している限り永遠のループ。

すると、別の言葉が降りてきた。「赦そう。」

そう唱えるとなんだか心が軽くなる。

「赦そう。」「赦しましょう。」・・・

言葉に二重の意味が含まれていることに気が付く。

「赦そう。」には「赦そう」とする思いと、「赦す」という思いが含まれ、

「赦しましょう。」には「赦してあげましょう。」という思いと「赦す。」という思いが含まれているのです。

そうすると「赦したい。」けど「赦せない。」と思っていた私は、抵抗なくこの言葉を唱えられ心が軽くなり「赦す。」者になって来たのです。

「赦そう」とする者もまた赦されるものになるのです。

或いは誰かに傷つけられたのは誰かを傷つけた所為。あの時こうしていれば良かったああしていれば良かった、と過去を後悔しながら自分を責めていることがあることに気が付くのであるなら自分自身を責めている事柄に対して「赦します。」と言ってみる。

そうやって、人を責める行為は自分自身を責める行為と気付くことで自分の中の怒りという感情を手放していくのです。

私達は神の分け御霊だけれども完全ではない。

完全でないから人を、自分を裁くのです。

神は赦しを愛と説きます。

赦しは理解し受け入れることでもあるからです。

赦しはものの見方では偽善かもしれないけど、偽善にはなりえません。

他人に赦しを与えることで自分自身の赦しを受け取ることになり、自分自身を癒す力、心の平安を得るのですから。

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