第62羽 アドラー心理学 教育の在り方 

アドラー心理学 教育の在り方 

 教育の目標は「自立」である

「課題の分離」では勉強は「子どもの課題」

カウンセリングは「治療」ではなく、「再教育」の場。

人は皆、「優越性の追求」を抱えて生きる存在。

人はみな「自由」を求め、無力で不自由な状態からの「自立」を求めている。

教育とは「介入」ではなく、「自立」に向けた「援助」。

共同体のなかでどのように生き、他者とどのように関われば、そこに自分の場所を見出すことができるのか。

「わたし」を知り、「あなた」を知り、人間の在り方を理解すること。

尊敬とは、ありのままにその人を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。

教育、指導、援助が「自立」という目標を掲げる時、まずは「あなた」が子どもたちを「尊敬」すること。

根源にあるのは「人間への尊敬」。

尊敬とは、「勇気づけ」の原点でもある。

教育者はカウンセラーであり、生徒たちと「ひとりの友人」であり、対等な存在として接すること。

「他者の関心事」に関心をよせよ

共同体感覚=社会を形成する「他者」への関心。

例えば子どもたちが遊んでいる遊びを理解しようとする。

もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたらと考える。=共感

共感とは、他者に寄り添う時の技術であり、態度。

 

「変われない」本当の理由

自分や他人の言動を見定める時には、そこに隠された「目的」を考える。

(=目的論

自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなた。

「いま」を肯定するために、「不幸だった」過去をも肯定する。

われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」は存在しない。

人間は、いつでも自己を決定できる存在である。

それぞれの解釈があるだけ。

過去は「いまのわたし」の正当性を証明すべく、自由自在に書き換えられていく。

人は過去に起こった膨大な出来事のなかから、いまの「目的」に合致する出来事だけを選択、意味づけをして、いまの「目的」に反することは消去している。

変わりたいと強く願いながらも自分を変われないのは変わりたくないから。

カウンセリングの三角柱(われわれの心を表す)

思い悩んだ人間が訴えるのは

「悪いあのひと」、「かわいそうなわたし」の2面。

それを語り合っても解決にはならないので、聞き流し、

もう1面の「これからどうするか」を語り合う。

なぜ「賞罰」を否定するのか  

教室は民主主義国家である。

そこでのルールは民主的な手続きによってつくられたものでなければならない。

互いの合意に基づいて様々なルールを制定し平等に適応されてこそ人々はルールを守ることが出来る。

誰かの独断的「力」で押さえ込んでいる組織はその根本に「不合理」がある。

学校という組織の主権者は教師ではなく、生徒たちである。

子どもが何かよくないことをしたとして、いったいなぜそのようなことをしたのか考えられるひとつは

それがよくないことだと知らなかった」という可能性がある。

子どもたちが残酷と思うことをすることも、ただ命の価値、他者の痛みを「知らない」のである。

知らないのであれば、叱責するのではなく、ただ教える。

 

問題行動の隠された「目的」

第1段階称賛の要求 「ほめてもらうこと」さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」。

「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動をとる」というライフスタイル(世界観)を身に付けていく。

第2段階注目喚起 共同体の中で、特権的な地位、確固たる「居場所」を得たい。

正攻法ではうまくいかないから、別の手段によって「特別なわたし」になろうと目立とうとする。

行動原理は「悪くあること」ではなく「目立つこと」。

積極的な子どもはちょっとしたルールを破るようないたずらによって注目を集めようとする。

消極的なこどもはできない子として振る舞うことで注目を集める。

無視されるより叱られても存在を認め、特別な地位においてほしいという願いがある。

第3段階権力争い 誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする。特権的な地位を得ようとする。=反抗

親や教師を、口汚い言葉で罵って挑発する。癇癪を起こして暴れることもあるし、万引きや喫煙に走るなど、平然とルールを破る。

一方、消極的子どもたちは「不従順」によって権力争いを挑んでくる。

第4段階復讐 特権的な地位を得ることができず、敗北した人はいったん引き下がった後に「復讐」を画策する。

かけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をする。

憎悪という感情の中で、私を注目してほしい。                          

「悪いこと」を目論むのではなく、「こんな自分になったのはお前のせいだ」と訴える為に、ひたすら「相手が嫌がること」を繰り返す

ストーカー行為、自傷行為、引きこもりもこの一環。

暴力、暴言がエスカレート。非行グループや反社会的勢力に入って犯罪に手を染める子どもも少なくない。

消極的なこどもは常識的では考えられないほど不潔になったり、周囲が嫌悪感を抱くようなグロテスクな趣味に耽溺するなど様々。

ここまできたら、利害関係のない第三者に助けを求めるしかない。

第5段階無能の証明 「これ以上わたしに期待しないでくれ」「わたしを見捨ててくれ」と願う。

最初から「できるはずがない」とあきらめた方が楽。

自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手段で「証明」しようとする。

あからさまな愚者を演じ、何事も無気力になり、どんな課題も取り組もうとしなくなる。

専門家に頼るしかないが、専門家にとってもかなり困難。

問題行動の大半は第3段階にとどまっている。そこから先に踏み込ませないためにも、教育者に課せられた役割は大きい。

そのすべては「所属観」、「共同体のなかに特別な地位を確保すること」が目的。

 

「叱る」という手段が教育上有効であるなら、せいぜいはじめの何回か叱っておけば、問題行動はなくなるはず。

最初から厳しく叱ったとしても、状況は今と変わらず、もっとひどくなりうる。叱責は彼らの望むところ。

例えば、暴力沙汰の喧嘩があったとして、

「原因」ばかり掘り下げるのではなく、彼らの「目的」に注目し、彼らと共に三角柱の「これからどうするか」を考える。

 コミュニケーションの目的は、目標は意思を伝え、伝えた内容が理解され、一定の合意を取り付けていくこと。

 議論にうんざりした人、議論では勝ち目がないと思った人は最後にコミュニケーションの手段として暴力を選択する。

 暴力とは、コストの低い、安直なコミュニケーション手段。

声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧して自分の主張を押し通そうとするのも、「叱る」という行為もコストの低い「暴力的」コミュニケーション手段。

叱責を受けた時、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識のうちに働き、軽蔑するようになる。

子どもたちの問題行動を前にした時、親や教育者は「裁判官の立場を放棄せよ

怒りとは人と人を引き離す感情である。

反省を強要したところで何も生まれない。

自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するもの。=自立

われわれは「他者の指示」を仰いで生きていたほうが、楽。=依存

周囲の大人たちは「自分の支配下におくために」子どもたちの自立を妨げている。

すべては大人としての責任を回避するため、自らの保身の為に子どもたちの自立を恐れている。

だからこそ、教育する立場にある人は常に「自立」という目標を掲げておかなければならない。

「先生のおかげで~できた。」というのは「自立」ではなく、「依存」と「無責任」の地位に置いている。

子どもたちの自立にあたって、必要な知識や経験があればそれを提供していくこと。

子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助する。

いつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助できる距離で見守る。

たとえその決断が失敗に終わったとしても、「自分の人生は、自分で選ぶことができる」と学ぶ。

競争原理(縦の関係)から協力原理(横の関係)へ

「ほめられること」を目的とする人々が集まると、褒賞を目指した競争原理に支配されていく。

競争原理は、「他者はすべて敵」というライフスタイルを身に付けていく。

誰かに勝つ必要はなく、目的を達成できればいいだけのこと。

組織は、賞罰も競争もない、民主主義が貫かれなければならない。

それが競争原理ではない、「協力原理」に基づいて運営される共同体。

そこでは、「人々はわたしの仲間である」というライフスタイルを身に付けるようになる。

問題行動に走るのは彼が「悪」だからではなく、共同体に蔓延する競争原理に問題があるから。

個人ではなく、共同体そのものを治療していくこと。

人間は「不完全な存在」としてスタートし、ゆえに劣等感を経験する。

この劣等感が、常に努力と成長の促進剤になって来た。

人間はその弱さゆえに共同体をつくり、協力関係の中に生きている。

人間の抱える最も根源的な欲求は「所属観」。

共同体の中で、「その他大勢」ではない特別な地位を得たい。

しかし、承認欲求に終わりはない。

ほめられることでしか幸せを実感できない人は、「依存」したまま満たされることのない生を送ることになる。

他者からの承認を求めるのではなく、自分の意志で、自らを承認すること。

「自立」

ありのままでいい。

「特別」な存在にならなくとも、平凡な「その他大勢」の自分を受け入れること。

「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く。

 

メサイヤ・コンプレックス

他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。

不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することなく、誰一人として幸せにしない。

まずは自らの手で幸せを獲得すること。

与えよ、さらば与えられん

すべての悩みは、対人関係の悩みである。

人間の喜びもまた、対人関係の喜びである。

われわれは交友において、他者の目で見て、他者の目で聞き、他者の心で感じることを学ぶ。

子どもたちが最初に「交友」を学び、共同体感覚を掘り起こしていく場所が学校。

自己信頼があっての他者信頼。

仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係は「信頼」の関係。

人類は身体的劣等性を補償するために「分業」という生存戦略を手に入れた。

人間は生存するために働く。

論理的でコモンセンスに一致する答えは、われわれは働き、協力し、貢献すべきである。

人間は一人では生きられない。

他者と「分業」するには、その人を信じなければならない。

疑っている相手とは、協力できない。

「利己」を極めると、結果として「利他」につながる。

利己心を追求した先に、「他者貢献」がある。

すべての仕事は「共同体の誰かがやらねばならないこと」であり、われわれはそれを分担しているだけ。

人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」ではなく、その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まる。

他者を「信頼」できるか否かは、他者を「尊敬」できるか否かにかかわっている。

「信用」では、相手を尊敬できない。

どんな相手であっても「尊敬」を寄せ、「信じる」ことはできる。

それはあなたの決心ひとつによるもの。

われわれ人間は分かり合えない存在だからこそ、信じるしかない。

まずは目の前の人に、信頼を寄せ、仲間になる。

まずは自分自身が争いから解放されなければならない。

全体の一部である自分が最初の一歩を踏み出す。

他者に無条件に信頼を寄せること、尊敬を寄せていくことは「与える」行為。

与えるからこそ、与えられる。「与えてもらうこと」を待っていてはならない。

自立とは「自己中心性(わたし)からの脱却」

子ども時代は、親に依存しないと生きていけない。

そして、子どもは「わたし」は、親に愛されてこそ、生きていくことができる、と気付き、己の「弱さ」によって大人たちを支配している。

多くの大人たちもまた、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、トラウマを武器として、他者をコントロールしようとする。

われわれはみな、生存戦略として、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界」の中心に立てるか模索する、自己中心的な「愛されるライフスタイル」を選択する。

甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならない。

愛は自立で、大人になること。

人は担保ある愛を求めている。

それは「傷つきたくない」「みじめな思いをしたくない」というもの。

その発想は、劣等コンプレックス。

裏を返せば、自分を愛せてない、尊敬できてない、信頼できていない、というものである。

課題を分離し、ただ自ら愛すること。

運命の人はいない。

運命の人を求めるのは、すべての候補者を排除するため。

出会いがないと嘆くのは、ありもしない理想を持ち出すことによって、生きた人間と関わることを回避している。

そして、幸せは向こうから訪れるものだと、可能性の中に生きている。

われわれはいかなる人も愛することができる。

誰かを愛するということは決意であり、決断であり、約束である。

運命とは自らの手でつくり上げるもの。

愛する人生を選べ

「恋に落ちること」は本質的には物欲と同じ。

他者に愛されることは難しい。

しかし、「他者を愛すること」はその何倍も難しい課題である。

愛とは「ふたりで成し遂げる課題」。

しかし、われわれはそれを成し遂げるための「技術」を学んでいない。

わたしたちの幸せ」を築き上げることが「愛」である。

愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない。

「楽をしたい」「楽になりたい」で生きている人は束の間の幸せを得ることはできても、本当の幸せをつかむことはできない。

われわれは愛によって自己中心性の「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れる。

そして、他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどり着くのである。

愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば変わる。

たった二人から始まった「わたしたち」はやがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていき、

生きている、ただそれだけで貢献し合えるような人類のすべてを包括した「わたしたち」を実感する。

人生はシンプルであり、人生もまた同じである。

しかし、シンプルであり続けることは難しい。

本当に試されるのは、歩み続けることの勇気である。

そして、アドラーは、彼の思想はそのまま継承されるのではなく更新していくこと、「すべての人の心理学」と位置づけ、アカデミズムの世界から遠く離れた人々のコモンセンスとして生き続けることを望んだ。

参考文献:幸せになる勇気 岸見一郎 古賀史健

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