第96羽 真我とはⅡ

真我とはⅡ

「わたしは、わたしである」

こんな言葉を聞いたことあるだろうか?

これは伊勢神宮にあるとされるご神体の三種の神器の一つである八咫鏡の裏に書かれている神の名前だという。

どういう意味だろうか?

聖書の登場人物のモーセはエジプトを出てさまよっている時、

ホレブ山で燃えるようなしばの中で神と出会い、

「わたしは、有って有る者。」という声を聴いたとされるが、

モーセの物語を映像化した『十戒』という映画のその場面で

「I am that I am.」と神は語っているが、

直訳すると「わたしは、わたしである」になることを発見し、

日本の神と聖書の神が同じ名前を語っていることに驚いた。

さて、自分の中に神が内在し、真我にたどり着くと幸せが何かわかると聞いた。

真我とはエゴ(劣等コンプレックス)を外したところにあるありのままの自分。

ありのままの自分を認めることで、自分を愛せるようになる。

そして、自分を愛せる者は他者を愛し、他者の為に生きようとする。

それこそが、本当の愛であり真我の目覚めである。

そして、エゴを捨てるとは執着を手放すことだとよく聞く。

私自身も執着を手放すことで真我に目覚め、本当の幸せを見出せると思い、執着を捨てよう、捨てようと自分に何度も問いただしていた。

ふと気が付くと、執着を捨てることで無気力になっていたり、執着を捨てなければという思いを抱きすぎて今度は「執着を捨てる」ということに執着していた。

少し違う気もして、ありのままの自分を認めるとはどんなものかをさらに考えていた。

すると、他者の目を気にして創った偽りの自分ではなく、「こんなわたしも、あんなわたしも、わたしは、わたしである。そんなわたしを受け入れること。」に行き着く。

あれ?どこかで聞き覚えのある台詞。

「わたしは、わたしである。」まさに自分の中の分け御霊の神の発見である。

劣等感は他者と比べることで自分が劣っているという思い込みのもの。

世界で一人きりだと思えば、他者と比べた自分ではなく、ありのままの自分を発見できる。

自分の劣等感の穴埋めをしようとして、欲求のままに生きる執着は要らない。

それは環境破壊をするものや、人を蔑ろにするものだから。

「しかし、何でもかんでも手放そうとするのではなく、受け入れるべき時もある」と、内なる神が言う。

そう考えるとどうなるだろうか?

それは、自分が「ない」ものではなく、「有る」ものだということを受け入れるべきというものになる。

それも神の名前の由来だと気付かされると、驚くものになる。

そしてさらに、内なる神は言う。

「わたしは、わたしである。だから他者と比べて自分が劣っていると思う必要はない。自分で楽しみながらできることで、やりたいと思うことを精一杯して、人の役に立って生きて。」

人は自分の好きなことで人の役に立つ生き方をしている時が本当の幸福にたどり着くのです。

真我は本当のわたしで、愛だから、

真我はわたしが本当の幸福になることを待ち望んでいる。

私達はその為に生きて、経験しているのですから・・・。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする